山本 清次さんのタイトル 

第25回
山本 清次 氏

やまもと せいじ

1977年大阪生まれ。

幼少期に中国武術の師との出逢いから氣の世界に氣がつく。青年期に知花敏彦師に心と体の関係を深く学ぶ。野口晴哉師の書籍に出逢い、野口氏の直弟子である岡島瑞徳師に整体を師事。愛光流氣光整体代表として延べ18万人の体を観察し「人を取り巻くすべてが健康に関係している」と考え、命理(四柱推命)、堪輿(風水)なども研究。健康で豊かな人生を送れる様、大阪・倉吉を拠点に全国で整体指導し講座をこれまでに、1800回以上行っている。

2016年7月28日に一般社団法人 愛光流を設立。

 一般社団法人愛光流 https://www.aikouryu6519.com

愛光流お問合せ先: inc★aikouryu6519.com(★を@に変換下さい)

Interview

テンプル ──

山本先生は現在、大阪を拠点に各地で野口整体を主軸とした整体指導をされていらっしゃいます。幼いころから中国武術を学び、十代で知花敏彦先生、二十代で野口整体の岡島瑞徳先生に師事されたそうですが、現在までにたどってこられた治療家としての道筋について少しお話いただけますか。

山本先生 ──

私の整体人としての始まりをお話すると、まず7歳に遡ります。 7歳のある朝、目が覚めると両親がいなかったという出来事が起こりました。両親の仲があまりよくなく、母がまず家を出ていきました。しばらく父親と暮らしていたんですが、ある朝、その父もいなくなっていました。そのうち帰ってくるだろうなとずっと待っていたんですが、何日経っても帰ってきませんでした。

テンプル ──

ずっとご自宅で一人でお待ちになっていたんですか? 大人でもそのような状況に陥ると不安がつのると思うんですが、毎日どうやって過ごしていたんですか?

山本先生 ──

夜になると寂しくて泣いていた記憶があります。でも死んじゃうかもしれないとか不安だとかそれはありませんでした。そうはいっても、毎日お腹は空きます。時効だからお話できますけど、近所の牛乳を盗って飲んだり、その辺に生えている草をちぎって食べたり、そんなことでお腹を満たしていました。

テンプル ──

それって昭和50年代のことですよね。近所の人が様子を見にくるとか、学校から誰か家庭訪問に来るとかなかったんでしょうか?

山本先生 ──

当時住んでいた大阪の西成区は日雇いの方も多かったし、学校に行かない子どもが何人もいたんです。通っていた小学校は制服のある学校だったんですが、制服がどこにあるのかわからない。私服で行くと友達に白い目で見られる。先生からもあまりいい対応をされない。給食費も払えない…。そんな状況が重なって学校にだんだん行かなくなりました。

テンプル ──

7歳にして一人暮らし。

山本先生 ──

道端で拾う1円、5円を集めて時々は10円のお菓子が買えました。草を食べたり牛乳を盗んだり、そんな感じで一人で生きていました。今ならとても考えられないことだと思います。

でも、ある時ふと学校に行きたくなって学校に行ってみました 。当時はもう僕と話してくれるのは用務員のおじさんくらいでしたが、その用務員おじさんが「なんで君はそんなんなんだ?」と聞かれ、色々話をしてるうちに「いい所に連れてってやる。強くなりたいんだろ?」と連れて行ってくれたのが中国武術の老師の御宅でした。

テンプル ──

天からのお導きですよね。その武術の先生との出逢いがその後の山本先生の人生に明かりを灯すことになった。

山本先生 ──

とはいえ、すんなり弟子入りを許されたわけではなく、何日もかかりました。でもこの先生についていかないと大変なことになると子ども心に分かっていたんですね。こちらも死にものぐるいで1週間、老師の御宅に通い続け、弟子入りを許可していただきました。面白いことに、そこを紹介してくれた用務員のおじさんが老師の弟子だったかはよくわからないんです。というのも、それから1年間、老師の元に通っていたんですが、一度も用務員のおじさんとは会いませんでした。

テンプル ──

相変わらず学校には行くことはなく老師の元へ?

山本先生 ──

はい、ほとんど学校には行きません。ずっと老師のもとで武術の稽古をしていました。その老師は理由あって中国を離れ日本で暮らしていたような方でしたが、数ケ国語を話すことができたこともあり、様々な要人が密かに老師のもとを訪れては何ごとか相談していました。毎日通っていた小学1年の頃は、まだ体ができていないこともあり、武術より薬草の知識や呼吸法などを学ぶことが多かったと思います。老師のもとに行けばご飯も食べられますから毎日毎日通っていました。そうこうしてるうち、約1年後ですが、母が僕を迎えに来てくれました。再婚した母の家で一緒に暮らすようになったんです。その後は頻繁ではありませんが、しばらく通っていました。ただ小学校4年に、当時住んでいた西成区から大阪郊外に引っ越したため、お小遣いを貯めて電車代ができたら老師のもとに通う。そんなことを小学6年まで続けました。