清水義久さんのタイトル 

Interview

テンプル ──

なにか確信のようなものがあるんですか? この内容で大丈夫だという。

清水先生 ──

僕らの能力の大前提で、セルフを消すというのがありまして。筋力テストとフーチやダウジングで100%に近いくらいの精度でできないといけない。それは条件が、脳波がシータ波以下になり、その集中して安定している状態を何分間か持続できるという前提があります。

テンプル ──

今回のインタビューの予習に文殊菩薩がテーマのセミナーDVDを拝見していました。そのなかで、『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴が本文の中に仕掛けた謎を数年かかって考え、ようやく答えにいきついたと、その謎解きについてもお話されていらっしゃいました。古今東西、地球のアチコチに秘されている仕掛けや謎解きを清水先生はいくつも探求されていて、その謎解きの探求過程で分かった宇宙の秘密のようなものがフォルダーに溜まっていて、そこにアクセスして必要に応じて取り出して来られるのかなと、いま想像したんですが。

清水先生 ──

それはそうですね。だからチャネリングとリーディングは違うと思っていて。ケイシーはリーディングであって、チャネリングではないんですよ。そこがまたケイシーの素敵なところです。深さは彼の方がはるかに深くて、船井先生の仰る「本質生命体」、いわば創造主につながっていくという突き抜けた感覚とレベルがあります。ケイシーは100%自分がいないのに、中間層の存在に憑依されて語っているわけではなく、自分で読みに行っているわけですよね。だからリーディングってうまい用語です。

テンプル ──

ときどき、参加者さんの質問のおかげで、初めて浮上してくる重要なトピックもありますよね。ケイシーのリーディングでも誰がどのような質問をするかがとても大事でした。

清水先生 ──

そうなんです。その質問が出ない限り、出ないことも沢山あります。分岐点がいっぱいあるんですよ。

テンプル ──

清水先生はセミナーを行っている最中は「我」のスイッチをオフにして、その場の流れにまかせている感じですね。

清水先生 ──

実はそういうやり方もケイシーからヒントを得ているんですよ。というのも、僕が授業で行っているのは、あくまでケイシーが行っているような「リーディング」であって、チャネリングではないからです。チャネリングというのは、守護霊さんや宇宙人、神仏などの存在に憑依され、自動的に語らされるという受け身の状態で行われること。そこにはこちらから読み取ろうとする「主体」はないんですよね。でもリーディングというのは、まずこちらから先に質問を投げかけて答えを求める、という能動的な状態で行うことです。それでいて、リーディングの最中に自分が何を話したのか全く覚えていないというケイシーの「我=セルフ」を100%手放す能力と、その器用なスタイルに大きく影響を受けていますね。 祈祷する清水先生

ケイシーに影響を受けたことといえばもう一つあって。それは、「人間は内なる部分に神を宿していて、誰でも直接そこに繋がることができるんだ」というケイシーのアイデア。これを知ったときには衝撃を受けましたね。そういう提言をしているところが、ほかのさまざまな預言者とケイシーの大きな違いであり、学ばなければいけない点だと思います。そこが分からないと、ただの傲慢で嫌な超能力者や神様使いになってしまう。後年になって、その内なる神のことを船井幸雄先生が「本質生命体」という言葉で表現されていましたが、それについては「ケイシーの本を読みなさい」とよく仰っていましたね。

テンプル ──

そうでしたか。……と、またケイシーの話に戻ってしまいました(笑)。ところで、いま内なる神=本質生命体のお話がありました。誰もがそこに直接アクセスできるということを知ってはいても、実際に繋がるのは難しいという人のほうが大半だと思います。清水先生のセミナーではその方法を教えてくださっていると思いますが、もしよろしければ、ここで特別にシェアしていただけないでしょうか?

清水先生 ──

そうですね。それでは、誰もが神様に近付いて、簡単に願い事を叶えられるようなノウハウをお教えしましょう。

まず、自分が叶えてほしいことを一つだけ選び、命題として紙に書いてみるんです。たとえば「ダイエットしたい」とかね。でも、ダイエットくらい神様に頼まなくても自分で努力すればできますよね(笑)。「恋人が欲しい」。これには相手が必要だから、叶えるのに少し難易度が高くなります。では「ビジネスサクセス」はどうか。これは頑張れば何とかなることなのかもしれない……という具合に、「頑張れば何とかなる」ものなのか、「頑張っても届きそうにない」ものなのか、「絶対に無理」なものなのか。神様に叶えてほしい願いがこの3つのうちどれにあたるのかを見極めてみてください。

そして、その願いが「自分が頑張ればなんとかなる」ようなものだったら、神仏に頼んではダメですよ。それを「神様、ひとつダイエットを成功させてください」と願ってしまうと、「それは君が頑張る話だろう」と、その時点で神様とのコンタクトが終わってしまうんです。これではご利益も何もないのは当たり前。とはいえ、それでもあなたがダイエットをしたいとしますよね。本来は自分の努力でやれる範囲のことだけれども、根性が無くてどうしてもできない。そういう場合には、「私が頑張れるように応援してください。私に頑張れるような力をください」と願うといいんです。これが第一ステージ。

第二ステージは、相手がいる場合の願いごとを叶えるとき。これには相手の同意や宿命と運命、タイミングが関わってきます。だから、自分が頑張ってもどうにもならないかもしれませんよね。こういうときには、「神様、私には好きな男性がいます。彼も私のことを好きになるようにしてください」と祈っても無駄です。というのは、相手の尊厳や自由を踏みにじって、こっちに来いとやるわけですから。神様としては「そういうわけにはいかないよ」となるじゃないですか。だから、「〇〇さんが私を好きになりますように」というのも「私に彼を振り向かせる力をください」というのもダメ。ではどうすればいいのか。それは、いま望んでいる願いのカテゴリーをもう一段階上げることなんです。