清水 浦安さんのタイトル

Interview

テンプル ──

その頃はまだ、中村天風さんは登場してないんですよね。

清水 ──

その勉強会が終了した後、赤坂の全日空ホテルの最上階のスカイラウンジで開催されていた朝の勉強会にゲストで話すことになりました。謝礼10万円と、そのホテルのスイートルームに宿泊できるという誘い文句に目がくらんで…(笑)。企業の二世たちが経営について学ぶ真面目な会だったんです。船井総研の故舩井幸雄さんも講師としてよばれていました。たまには毛色の違う人を誘おうと、僕が呼ばれたわけです。

参加メンバーの中に某有名自動車会社のお孫さんがいたので、事前にその自動車会社の創業者を降ろしてほしいと頼まれていたんです。本田宗一郎さんが出るなら、自分のお祖父ちゃんも降ろしてほしい、ということですね。ところが、事前にその創業者と話をしようとしてもその人が全然降りてこない。勉強会の前夜、ホテルに泊まっても出てこない。

肝心の創業者は降りてこないし、勉強会は翌朝7時半から始まる。それに備えて寝なきゃと思って部屋のミニバーにあったお酒を全部飲んでも全然寝付けない。どうしよう~と思っていた真夜中、突然、ダミ声が聞こえてきました。平成10年3月3日真夜中3時です。「清水君、君、困ってるんだろ?」「君、悪いようにはせんから、そこに置いてある紙を持って来なさい」って。名前を聞いたら「中村だ」と。

大きなホテルだから誰かの霊でも来たのかと額の裏側を調べて神社やお寺のお札を探したけどそんなものはない。部屋のあちこちでお札を探していたら「何をやっているんだ」と聞かれたから「あなたは浮かばれない霊なんでしょう?」「下のお名前は?」と聞いたら「三郎」だと。中村三郎なんてありきたりの名前だなぁと言ったら「君、困ってるんだろう?困ってるんなら、言う通りに書きなさい」と言われて、その人の言う通りに書いていたら「清水君、なんで漢字を使わないんだ。なんでひらがなとカタカナばかりで書くんだ」と注意してくるんです。そうはいっても胸に響いてくる音(声)を書きとるのに必死だったんです。ひらがなとカタカナで書いたものをあらためて清書してフロントでコピーをとってもらいました。「明日、係の者が起こしに来るから、それまで安心して寝ろ」と、朝までぐっすり寝ました。

翌朝は皆さんで朝食を食べたあと、いよいよ「それでは清水先生の登場です!」と呼ばれたわけです。僕は、中村さんが来てくれるから安心だなぁと思っていたので、まず皆さんに禿頭を下げて挨拶したんですが、その頭が下がったまま上がらないんですよ。すごい力で上から押さえつけられて。「中村さん、中村さん、もう始まってますよー。お願いしますー」と呼びかけても出てこない。何も返答がないんです。「なかむらさーん、返事して下さいよー」「悪いようにしないと言ったじゃないですかぁ」と言っても出てこない。僕はその間ずっと頭を下げっぱなしです。

そのうち参加者がザワザワし始めて「あー。もうダメだ。ダメだ~」「土下座して謝ろう」「何も聞こえません、ごめんなさい」と思ったときに、突然押さえられていた力が抜けて頭が持ち上がったんです。そして大声で僕が言い始めました。「諸君!」「元気ですか~!」 あれ?何が起こったんだ?と思っているうちに、ツカツカ~と真ん中に出て「経営者たるもの挨拶が大事」と、何がなんだか分からないんですよ。何が起こっているんだと内心では思っているんですが、止まらないんですよ。で、「渡した紙を読むから、ついて来なさい」と。え~!と思っているうちに始まりました。「永遠の今に生きる誦句」と、深夜に清書した紙を読み上げ始めたわけです。その紙の最後には中村三郎と署名が書いてあって…。

そして、何故、自分が前座として出たのかを中村さんが話し出しました。「実は、僕の後輩が巣鴨大学に行っててなぁ。慰問に行ったらそこに**さんがいてなぁ」と、またよく分からない話を始めたんです。後で分かったことですが、巣鴨大学というのは巣鴨プリズンのことで、そこにA級戦犯として収容されていた広田弘毅さんのところに面会に行ったことがあるらしいんです。広田弘毅さんは天風先生の福岡の高校の後輩です。その面会の時に巣鴨に創業者がB級戦犯として入っていたことを知ったそうです。そういったご縁で中村さんが前座に出てきたというわけだったんです。

そこまで言って中村三郎さんが下がったとたん、創業者の霊が登場してきました。すると、そのお孫さんは僕が本物かどうか試そうとして家族しか知らない人の名前を聞いてきました。それは、その創業者がつきあっていた女性の名前でした。創業者は、その方との関係性についてこう言っていました。彼女は皆さんが思うような人ではなく、自分が本当に苦しかったときに支えてくれた恩人なんだと。戦時中、大切な社員は戦争に行ってどんどん亡くなる、軍のために車両も作った。様々な艱難辛苦が会社に起こった。敗戦の色が濃くなり、死んでお詫びをしようと自殺も考えた。そんな誰にも言えない思いを聞いた彼女は「あなたは生き続け、社員を迎えなさい。生き恥をさらしなさい」と自分を恫喝してくれた。今、会社と自分があるのは彼女のおかげなんだ。そう言われたんです。

テンプル ──

あの大企業が今日あるのも、その女性の叱咤激励のおかげだったんですね。同じ女性として気が引き締まる思いがします。

清水 ──

その会が終わったあと、中村三郎さんの指示で書いた紙がアチコチに出回るようになりました。ある日、会社に佐々木の将人と名乗る方から電話があり「自分のところに中村三郎と署名のある文章が回ってきたんですが、これはひょっとしたら自分の師匠かもしれない」と言われたんです。「師匠って誰ですか?」って聞いたら中村天風だと。中村三郎は中村天風の本名だと教えてくれました。その人は生前の中村天風先生の鞄持ちだったんですね。こりゃ、やばいことになった。どうしようと思ったとたんに僕の口が勝手に喋り始めちゃったわけです。「佐々木君、元気かい!」「先生ですか?」「そうだ!」「お懐かしゅうございます」と佐々木さんが泣き始め、大変なことになりました。 その後、その佐々木さんが中村三郎の署名の入ったあの文章、ひらがなとカタカナばかりだったのを漢字に書き直してきれいに清書して送って下さいました。その後それが無くなってしまって…。ここに残っているのは、その後、別の人からいただいたそのときのコピーなんですけどね。

永遠の今に生きる誦句

テンプル ──

しかも、このコピーもすでにボロボロです(笑)。

清水 ──

このことがきっかけで霊人天風先生からつきっきりで指導を受けるようになりました。主に、心や思考がどれほど大切か、ということですね。「君の心が大事なんだ」 そう、徹底的に言い続けられました。

テンプル ──

指導というのは、心の中で一問一答が続く感じなんですか?

清水 ──

こうやって喋っていると、急に話し声が聞こえてくるというか、話しかけられてくるというか。それでブツブツ喋っていて、急に我にかえると「あれ?僕は誰と喋っているんだ?」って感じになります。

霊的なことは特に詳しくなかった僕にも分かるように、易しく心のことを話すんです。例えば、こんな感じです。「積極的ってどういうことか分かるか? 子どもが補助輪をつけた自転車に乗れるようになった。うまく乗れるようになったので親がその補助輪を取った。そしたら嬉しくなって親の目の届かない遠くまで自転車を漕いで行ってしまった。でも遠くに行ったその場所で自転車ごと転んでしまった。普段だったら泣けば誰かが助けてくれる。でも遠くに行ったから大泣きしても誰も助けてくれない。いよいよ誰も来てくれないと気がついた時、自転車を自分で起こして、帰ろうと一歩踏み出す。その瞬間の心の態度のことを積極的というんだ」 へぇ、それが積極的な心なんだ。なんとなくイメージできるなぁ。そんな風に教えてくれました。