柴田久美子さんのタイトル

Interview

テンプル ──

私は以前インタビューで、看取りをされているドクターにお目にかかったんですが、その時に私は『たとえばどこかで野垂れ死んだとしても、必ずあの世から迎えが来るから孤独に死ぬなんていうことはない。だから大丈夫なんだ』というようなことをお話したことがありました。でもこう聞くと、たった1人で死ぬよりは、自分が生涯かけてためてきた愛や光のエネルギーを誰かに受け渡しして死にたいと思いますよね。

柴田 ──

そうでしょう。確かに死ぬ時はお迎えが来ますから、本人的には孤独死ではないのです。でも、周りの人にとってはとてももったいないのよ。魂のエネルギーを受け取る貴重な機会を無駄にするわけですから。

テンプル ──

私の友人のお父様が先日、肺炎をこじらせて病院で亡くなったんですが、彼女には看取りの知識がなかったので抱きしめることなく見送ってしまったそうなんですね。身体を拭いたり死化粧を施したりはしたそうなんですが。それくらいでもエネルギーを受け取れたんでしょうか。

柴田 ──

お友達はお父様と同じお部屋にいらしたんでしょう?だとすると、エネルギーだから目には見えないけれど、お部屋の空気が絶対に変わっていたと思うんですね。とても綺麗だとか居心地がいいとか、何か感じられたんじゃないでしょうか。シャワーと一緒でその場の空気を浴びるだけでも、心がオープンで魂が覚醒していたら十分にエネルギーを吸収できると思います。それに、体を拭いて死化粧をする時に体を触っていますから、きっと受け取られていますよ。

テンプル ──

そうですか、それはよかった。でも仮に看取りの知識を持っているにせよ、親を抱きしめるというのは結構ハードルの高いことではないですか? 日本人はとくに「抱く」という行為を普段しませんし。スキンシップの一環でハグを当たり前にする欧米人とは、そもそも習慣が違います。

柴田 ──

確かに、あの世への移行の段階に入った方を『抱いてください』とご家族に言っても、皆さん抱けないんですよね。お母さんやお父さんは子どもを抱くのに、同じ親子で立場が逆転するだけでなぜこうも難しいことになるんでしょうか(笑)。でも親の側は子どもに抱かれるのを待っているものです。

ある女性のケースですが、64歳になるお父様が余命1か月と宣告されてから3日目に抱いたんですね。そうしたら抱き返されたんです。お父様はきっとその時を待っていたんですね。でもね、どうしても抱くのが無理なら手をつなぐだけでもいいの。

抱き合う写真

テンプル ──

親子だけでなく、夫婦でも抱くのが難しそうな人たちもたくさんいます(笑)。

柴田 ──

すでに関係性の終わっているご夫婦はたくさんいらっしゃいます。そういう方々はもう別れたほうがいい(笑)。先日も、94歳のご主人と87歳の奥様のご夫婦が離婚したいとお話しなさり、お別れになりました。

テンプル ──

ええ~っ!

柴田 ──

奥様はずっとパーキンソン病だったんですが、旦那様は全く面倒をみてくれなかったそうなんです。それで、旦那様が肺がんで余命1か月と宣告された時に別れを告げたんだとか。

テンプル ──

そんな状況で離婚をされるとは勇気のいる決断ですし、周りの方々に大きな波紋を投じたでしょうね。私もある病気を持つ女性と電話でお話したときに、ケイシー療法で対応するなら必ずご主人の協力が必要になりますとお伝えしたら『それは絶対に嫌です!』と。電話口でワナワナ震えているのが分かるくらいでした。

柴田 ──

そういうご夫婦を私はたくさん見てきましたよ。奥様が我慢しているケースがほとんどでした。だからノホホンとしている旦那さん達は気を付けないと、自分の最期を妻が看取ってくれないことになります。

テンプル ──

これからは『最期に抱きしめましょう』という前に『元気なうちに、その人が最期に抱きしめられたい人なのか、抱きしめたい人なのか、相手をよく見極めておきましょう』と伝えないといけませんね(笑)。そうでないならさっさと別れて、臨終の際には看取り士さんにお願いしたほうがよっぽど心安らかに最期を迎えられるのかも。

柴田 ──

そうなんですよ。それまでの暮らしの中で小さな心のすれ違い、わだかまりの石を心に積み重ねてきたような方には、私はすぐに別れなさいと言うんです。誰でも人生いろいろあるけれど、最期には幸せであってほしい。我慢なんてしなくていいんです。楽しく自由に生きていかないとね。

テンプル ──

そういう意味では、先ほどお話に出てきたワガママなお爺ちゃんはまさに生き方のお手本だと言えますね。聖職者だとか学校の先生だとか、何かいいことをしている人だとかいうのではなくて、自由に生きている人だったからこそ、幸せな最期を迎えることができた。そして、柴田さんに気付きを与えるほどの何か大きなエネルギーを溜めていたわけでしょう。普通なら先ほどの奥様みたいに我慢の人生を強いられてきた人に軍配が上がりそうなものですが、そうでないところが面白いというか。

先にお話した友人のお父様も、それは好き勝手に生きてきた人だったらしいんです。でも、お父様が亡くなってからまだ1か月と経っていない時期に、その友人がいわゆる何人かの見える人から口を揃えて『お父さんはもう成仏しています』と言われたんだそうで。それで、『普通、人は49日の間この世をさまよってから浄土に行くといわれているのに、聖人でも善行を積んだ人間でもなく、しかも母や私をさんざん振り回した父が?』とすっかり気が抜け、自分もこれからは好きなように生きようと思ったらしいのです。

柴田 ──

そのお父様、きっとキリストですよ(笑)。ご友人はお父様から『好きなように生きよ』というメッセージとともに魂のエネルギーを受け継いだということ。だからワガママに生きたらいいの。自分の魂を閉じ込めるのではなくて解放して生きることです。そうすると亡くなる時に魂が光るわけ。

テンプル ──

私はエリザベス・キューブラー=ロス※5先生に2度お会いしました。彼女も最期は孤独だったようですが、歴史に残るような功績を残した人が『神様なんていない』だとか、それまでの自分のイメージと功績を覆すような毒舌を吐きまくっていたのが何というか潔くて自由でいいなと思いましたよ。

  • 5 エリザベス・キューブラー=ロス……医学博士、精神科医。ターミナルケア(終末期医療)、サナトロジー(死の科学)のパイオニア。死を受容していく心理的過程を「否認と孤立」、「怒り」、「取引」、「抑鬱」、「受容」に分類した“死の受容5段階モデル”を提唱。著書に、『死ぬ瞬間』(読売新聞社)、『ライフ・レッスン』(角川文庫)、『人生は廻る輪のように』(角川文庫)等。

柴田 ──

本来、死というのはプラスとマイナスの両面を持っているのですが、肉体に囚われてしまうと途端に死はマイナスになってしまいます。でも魂の側から見ればプラスなんですよね。キューブラー=ロス先生はずっと魂の側にいたけれど、多分色々と我慢していらしたんでしょうね。それで最期に病気という重荷を背負い、肉体の側に反転してしまった。人間もまた誰もが陰と陽のエネルギーを持っていますが、その調和を図ることが大事なのではないでしょうか。

たとえば体と心や魂のバランスとか、現実とスピリチュアルな世界とのバランス、社会と自分とのバランスetc.……。自由に生きたほうがいいとはいえ、やはりそうしたバランスを上手に取るのは、誰にとっても最期まで課題なんだと思います。だから私は最近、魂を一輪車に例えているんですよ。目に見える世界と見えない世界を繋げるちょうど軸のところにあるのが魂で、どちらかにバランスが偏ると車輪がうまく回らないでしょう。

テンプル ──

なるほど。でも現代において死というものは、まだマイナスに偏っているような気がします。子どもに祖父母の死を見せないようにしているという話もよく聞きますし。お葬式から帰ると玄関でお塩をまくのも、穢れの発想からですし。

柴田 ──

そうなんです。昔はお年寄りと一緒に暮らす家族が多かったから、もっと死が身近なところにありました。私もよく『亡くなった人が火の玉になって飛んで行った』というような話を祖母から聞いたものです。そういう目に見えない世界に触れる機会がたくさんありましたけれど、今は見える世界だけの論理で死を語っている。だから遺体が穢れとして扱われ、故人をゆっくりと見送ることもできない。