中山千晶氏のタイトル

第35回
中山 千晶 氏

なかやま ちあき

ヒプノチャネラー、鍼灸・マッサージ師。国際色彩診断治療研究会会員。

中国への短期留学後に鍼灸・マッサージ師の資格を取得。病院勤務後に開業。後に家族の延髄梗塞の介護を4年間続ける。2009年、微小生命体ソマチッドを血液中に発見したガストン・ネサン氏のカナダ研修に参加。そこでイーハトーヴクリニック院長、萩原優医師と出会う。帰国途上の飛行機の中で萩原優医師から受けた催眠療法に強い衝撃を受け、帰国後、萩原医師に師事。様々な導きや偶然が重なりヒプノチャネラーとなる。私生活は波瀾万丈で、4度の結婚、離婚歴がある。3.11後の海外での長期滞在中、線維筋痛症で激しい痛みで動けなくなるなどの闘病が始まる。帰国後、家族の献身により回復、ヒプノチャネラーとして復帰。現在は主にグループセッションを中心に活動中。

公式サイト https://hypno-ch.com/

Interview

テンプル ──

まず、中山さんがされているヒプノチャネリングとは何か、どういう経緯から始まったのかを教えていただけますか?

中山 ──

「ヒプノチャネリング」は、私が催眠状態に入った後でクライアントの潜在意識に入り、クライアントさんの潜在意識の声を聴いたり、その方のマスターからのメッセージを受け取ったり、 情報ソースなど、必要なところに繋がったり、ということをしています。

「ヒプノチャネリング」は、横浜の イーハトーヴクリニック院長の萩原先生が名付け親です。全ては2009年のカナダツアーから始まりました。

 イーハトーヴクリニックhttps://ihatovo-clinic.com/

少し長いお話になりますが、私は子どもの頃から夢で未来の出来事を見ることがよくありました。2000年に息子を産んだ時、ものすごくリアルな夢を見ました。それまでも自分に関係する夢は見ていましたが、息子を産んだ時の夢は、未来の世界の出来事だったんです。世界がこれからどうなっていくのかという。

その夢で、「この子を大切に育てなさい」という警告がありました。彼は、将来とても重要な役目を持つからと。私は徳島出身なんですが、同じ徳島に住む男性と、鍼灸の専門学校時代に出来ちゃった婚をしていました。たまたまその時の学長が東大の産婦人科医で「産みなさい」 と勇気づけて下さり、鍼灸学校3年の時に息子を出産。国家試験にも受かりました。

でも、その頃まだ大学生だった夫の浮気が原因で離婚をしました。浮気相手だった女性が妊娠をしていたんです。夫は大学生でしたから経済力がなく、養育費もありません。それで徳島に戻り、息子が生後半年になったところで東洋病院の鍼灸師として働き始めました。 ところが、就職して半年くらい経った頃、息子が肺炎をこじらせてしまい、看病のために退職せざるをえなくなりました。

それで、地元徳島で鍼灸院を開業したんですが、息子が3歳になった頃に「色彩診断治療」と出会い、 その勉強のために先生のいる愛媛県の松山に引っ越しました。色彩診断治療の勉強をしながら鍼灸師として働けましたので・・・。そこで半年ほど働いた頃、 また息子が肺炎となり、看病のために仕事を辞めて再び徳島で開業をしました。その時には色彩診断治療ができるようになっていました。

 色彩診断治療https://www.shikisai-chiryou.com/

その頃、屋久島で開眼したという霊能者との出会いがありました。 友達の紹介で会いに行くと、その霊能者に「あなたは近いうちに、かくかくしかじか、こういう人と出会いますよ」 という予言がありました。そしたら、本当にその出会いがあったんです。

その方は札幌の方でしたが、その方の元で仕事をするために札幌に行くことにしました。息子が5歳の時です。

ところが、彼の元で働くことにしたちょうどその頃、彼が医療事故で寝たきりとなってしまいました。先日まで元気だったのに、こんな状態になってしまった。一生病院から出られないかもしれない。妹さんは横浜に住んでおり、身近に誰も世話をする人がいない。 「それなら私がお世話します」と、私が彼の世話をすることにしました。でも介護が始まると、家族でないと病院で受ける検査や治療の同意書にサインが出来ないんです。それで、彼の介護のために2回目の結婚をしました。

当時のエピソードを1つご紹介すると、彼は何度か心肺停止になり、死の淵まで行きました。 彼が昏睡状態になったとき、私はイエス・キリストをイメージしながら、彼の頭を両手で支えていました。誰が彼の名前を呼んでも目を開けなかったのに、私が呼びかけたら目を開けたんです。意識を取り戻した後、「三途の川を渡りかけた時に名前を呼ばれたから戻ってきた」と言っていました。不思議な世界もあるんだなぁと、その時に思いました。

それから4年間、彼の介護し、一人で食事ができ、歩けるようになるまでに回復したので離婚をしました。「これからは、自分の人生を歩かせて下さい」と。