私の記憶が正しければ、 3月15日を関東で過ごしてはいけないという警告がセッションであり、14日の仕事が終わってすぐに家族全員で車に乗り、西に向かったんですよね。
そうです。3月14日の夜中に車を走らせて徳島に戻りました。後に、3月15日の朝、大きな放射能雲が関東一円を覆ったとニュースで見ました。
私たちは、全くそんなことを知らされず、子どもたちは学校に行き、大人は仕事に行き、家では洗濯物を干していました。
私はハワイの友人のご主人が癌で、そのセッションをする約束していたこともあり、3月16日には徳島からハワイに向かいました。
ハワイに着いたら、すでにハワイの乳牛から放射能が検出されたというニュースが出ていました。日本の報道とは全然違っていました。結局ハワイには40日くらい滞在したんですが、ハワイも汚染されて危ないということで、オーストラリアに移りました。オーストラリアで暮らし始めて、いろんな方との出会いがあり、そこでもセッションをするようになりました。
ハワイに滞在中行ったセッションで未来の日本をみたら、「日本政府はこの汚染を日本中に広げる」「学校給食も汚染食材が使われる」と警告がありました。その時には、にわかに信じられず意味も分からなかったんですが、そんな警告があった日本に息子を連れて帰ることはできません。それで国外でそのまま暮らすことにしました。そしたら、本当に汚染した瓦礫を日本中で処理し始めましたよね。何という大変なことを日本はしているんだろうと怒りが沸いてきました。
本当に。私も3.11後、政府がやることの意味が全く理解できませんでした。私も当時、海外の報道をチェックしていましたが、日本で流される報道との違いに愕然としていました。
それにしても、海外で長期滞在するとなると、経済的にも大変だったのではないですか?
二人目の夫が「これまで介護してくれたから」と、ある程度まとまった金額を渡してくれていたので、それが役に立ちました。
私の記憶では、3.11が起きるずいぶん前から、ご主人に仕事を辞めて欲しいと懇願して、ようやく退職したら3.11が起こった。もしあの時辞めていなかったら、すぐに日本を離れられなかっただろうと言われていましたよね。
彼が働いていたIT系の企業が、いわゆるブラック企業だったんです。健康を考えて退職して欲しいとずっと彼には伝えていました。 退職後すぐに3.11が起きました。
オーストラリア滞在中に、彼のセッションをしたところ、彼の潜在意識はもう自分の役目は終わったから日本に戻りたいと言っていました。でも、顕在意識では、まだ帰りたくないと。彼は元々、IT系の硬い仕事をしていましたから 私がやるセッションに気持ちがついていかなかったんだと思います。でもそのまま別れずにいたら、私が病気になりました。病名が判明するまで時間がかかったんですが、繊維筋痛症でした。
私がマレーシア滞在中にお会いしたときにはお元気そうに見えましたが、マレーシアではすでに発症された後だったんですか?
経済的な理由でオーストラリアからマレーシアに移住したんですが、ずっと痛みを我慢していました。でも最後には動けなくなってしまって・・・。歩けないし、激しい痛みで眠れないし、もう自分は死ぬんだと思っていました。
いよいよ1人では動けなくなったので家族で帰国し、札幌で暮らし始めました。 その時には寝たきりで、私はこのまま死ぬだろうと思っていました。そんなとき、2番目の夫が亡くなったという報せが届きました。
彼の法要に行った時、自分はもうすぐ死ぬと思ってので、彼の妹さんに息子の後見人になってもらいたいと挨拶をすると、それなら2人で横浜に出てきなさいと言われ、横浜に移りました。3番目の夫とは帰国後別れています。
帰国後は、子供はアレルギーだからと学校給食を食べさせないようにして、毎日お弁当を持たせていました。
この時点で息子さんの転校は何回くらいになっていたんですか?
20回ぐらいは転校しているんじゃないかと思います。
マレーシアで中山さんにお会いした時に、息子さんは学校に行っていませんでしたよね。 平日の昼間、漫画を読みながらゴロゴロしていたのを覚えています。その息子さんが阪大に入り、今は東大の大学院で勉強されているって聞いて、本当に驚きました。
彼が生まれた時に言われた予言そのまんまなんです。私も、なんでこんなシングルマザーの元で育った息子が優秀に育ったんだろうと不思議なんですが、それは産まれてすぐのセッション通りだったんですよね。