入佐 明美さんのタイトル

第31回
入佐 明美 氏

いりさ あけみ

1955年生まれ。看護専門学校卒業後、病院勤務を経て、1980年より釜ヶ崎でケースワーカーを務めた。著書に『ねえちゃん、ごくろうさん』(キリスト新聞社)、『いつもの街かどで』(いのちのことば社)、『いのちを育む』(共著、中央出版社)、『地下足袋の詩』(東方出版)等がある。 

Interview

テンプル ──

入佐さんが釜ヶ崎で働くようになった経緯をまずは教えていただけますか?

入佐 ──

中学2年の時に、ネパールの岩村先生の存在を知りました。岩村先生は、キリスト教徒としてネパールで医療奉仕をされていらした方で、その先生の姿に感動して、大きくなったらネパールに行って医療奉仕をしたいと思うようになりました。それで看護師になりました。23歳の時に岩村先生の講演会に行くことができ、講演会の後で岩村先生に「私はネパールに行きたいんです」とお話しました。すると岩村先生に「あなたはネパールにピッタリだから、早く準備をしなさい」と励まされたんです。 

それで、心の準備をしていたら電報が届いて、岩村先生とまたお会いすることになりました。すると岩村先生から「将来、ネパールに行って欲しいけども、日本にもネパールのように、多くの方が結核に苦しんでいる場所がある。まずそこに行ってもらえませんか」と言われたんです。そこは10人に1人が結核で、年間300人が路上で亡くなるというお話でした。1年間悩みに悩んで、決心して釜ヶ崎に行くことにしたんです。

  • 岩村昇先生  広島での被爆体験から医療の道に進み、1947年旧制松山高等学校に編入、1954年鳥取大学医学部を卒業後、鳥取大学医学部助教授を経て、日本で最初に設立された国際協力NGOの一つである日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からの派遣ワーカーとして、1962年ネパールに赴任した。 当時国民の平均寿命が37歳というネパールで、以後18年間、結核・ハンセン病・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病の治療予防として栄養改善のために、岩村(旧姓:門脇)史子夫人と共に活躍し、「ネパールの赤ひげ」と呼ばれた[1]。帰国後、神戸大学医学部教授として教鞭をとる。 「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した。
    ウィキペディアより 

テンプル ──

ご両親は反対されなかったですか?

入佐 ──

両親に相談すると反対されることは目に見えていたので、ずっと言わなかったんです。釜ヶ崎に行くことを決断した後で、朝日新聞に私と岩村先生と研修先の院長先生の3人が大きく三面記事に載って、それを親戚の人が読んで発覚。両親は新聞に載った後で知ったのですごくショックを受けていました。

 社会的にも大きく出てしまったのでもう反対しても仕方がないと。父は「自分で決めたことだから頑張って欲しい」でも「しんどかったらいつでも帰ってきていいよ」とずっといい続けてくれました。 

最初はキリスト教釜ヶ崎越冬委員会の専従員として4年間ケースワーカーをして、後は『経済的に支える会』を作ってもらって6年間。その後の26年間は一人で働きました。

テンプル ──

クリスチャンになられたのはいつですか?

入佐 ──

高校の先輩がクリスチャンで、看護学校時代に洗礼を受けました。家族は仏教です。

テンプル ──

釜ヶ崎で働くことを決意するのに、信仰は力になりましたか?

入佐 ──

マタイの福音書に『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』と言う言葉があります。決断するとき、この聖書の言葉はすごく支えになりました。神様の為に奉仕したいという願いは、具体的に釜ヶ崎の人に奉仕をすることかなと思いました。 やはり信仰があったからこそ決断できたと思います。

テンプル ──

ほとんどの人は、出来るだけ環境や給料の良い職場、あるいは、親が安心するような職場を選ぶと思うんですが、そういう選択基準はなかったんですか?

入佐 ──

私は元々鹿児島出身なので、釜ヶ崎のことを実際にはよく知らなかったんです。それに、最終的にはネパールに行きたいという思いがあったので、釜ヶ崎に入ることにはまったく抵抗はありませんでした。看護師でも、外科や内科に向いている人、手術室に向いている人がいますよね。私は看護師になった後、精神科を選んだんです。人間相手の仕事、人との繋がりを大事にする仕事が自分には合っていると感じていました。

テンプル ──

入佐さんの存在を教えて下さったのは静岡の公認会計士の小林正樹さんです。小林さんは「釜ヶ崎は、警察官ですら2人ペアで歩かないと危ない街なんだ」とおっしゃっていました。男性警察官でも2人で歩くような町で、若い女性が一人で歩くなんて、狼の群れの中を羊が歩くような…。怖いと感じたことはなかったんですか。

入佐 ──

怖いとは思いませんでしたが、緊張はしていました。その前に精神科で3年間働いていましたので、どんな状態であれ、こちらが好意を持っていたら大丈夫。そんな信頼があったと思います。自分から声をかける、この人たちに元気になってもらいたい、そういう思いでした。