今から40年ほど前の釜ヶ崎はどんな様子でしたか?
不景気で仕事のないときもありましたが、働く労働者の街で、生き生きしたエネルギーと活気がありました。ただ、路上生活者はいましたし、路上でのオシッコも多かったのでアンモニアの匂いは漂ってました。
岩村先生はそんな場所に、どうして入佐さんを誘ったんでしょう?
それまで釜ヶ崎で活動していた人が岩村先生に「医療従事者は外国へは奉仕に行くけども、釜ヶ崎には来てくれない。誰か一人紹介して欲しい」と頼んでおられたようです。そんな時、私を見てピッタリだとひらめかれたみたいで。私が精神科を選んでいたこともポイントになったみたい。それと、岩村先生と私が何人かの人と釜ヶ崎を歩いていたら、釜ヶ崎のオジさんたちが何故か私に声をかけてきたそうで、そういうのをみておられたんですね。岩村先生からすると、私は楽天家なんですって。こういう性格なら大丈夫だろうと。
釜ヶ崎に入った当初、オジさんたちから信頼を得るまで時間がかかったと思いますが、どんなふうに仕事をスタートされたんですか?
ケースワーカーというのは、人の相談に乗るというのが主な仕事になります。だから人間関係が作れなかったら仕事にならないんです。なので、とにかく道を歩きながら声をかける、挨拶をする。でも最初はずっと無視でした。怒られたりもしました。でもそうやって毎日挨拶をし続けているうちにコミュニケーションが取れるようになりました。
釜ヶ崎の人たちとコミュニケーションが取れるようになったのはどれぐらい経ってからですか?
2、3ヶ月くらいです。
一番最初に受けた相談内容は覚えていますか?
重症の結核の方でした。病院に直接連れていけないので、役所に行って生活保護の申請をし、それから病院から迎えにきてもらいました。でもその方にケースワークができるようになるまで、実際は2ヶ月かかっています。
「結核だし、自分のような人間は死んだ方がいい、今更入院をして、しんどい思いをするよりは酒を飲んで死んだ方がいい」 そんなことをずっと言われてたんです。でも、ずっと声をかけ、話を聴き続ける。ただそれだけをやっていました。そのうちにだんだん良い関係ができるようになって…。
入佐さんのために元気になりたい。そんなふうに感じられてきたんでしょうか。
はっきりは分かりませんが、重症の結核で2か月も野宿することは、体力的に限界だったのかもしれません。入院された次の日、面会に行ったら、お隣のベッドの方が、本人がトイレに行っておられたときに「あの人は、ねえちゃんが話を聴いてくれたことが一番嬉しかったんやで」と言われました。「聴いてくれる人が一人でもいたら頑張れる。やる気が出るんや」と続きました。私はその言葉を仕事の土台としてきました。
路上で野宿されていた方にアパートの入居の世話もされていましたよね。路上暮らしの方にアパートの世話をされる時に一番気をつけたことは何ですか?
最初はこちらで、なるべく良い場所を探して、入居してもらっていました。でも最初の4、5人は定着しなかったんです。途中でいなくなるとか。なんでかなぁと考えたら、私の価値観を押し付けていたことに気がつきました。自分を主人公にして、相手を主人公にしていなかったんです。
野宿するよりはここがいいだろうと思ってやっていたんですね。だから私のやり方を徹底して変えなきゃと自分を白紙にしました。
それに気づいてからは、路上生活の方に「どんなアパートがいいですか?三畳一間がいいですか、四畳半とどっちがいいですか? 一階と二階だったらどっちがいいですか?小さなアパートと、人がたくさん住んでるアパートはどっちがいいですか?炊事場があるのとないのはどっちがいいですか? そういったことを丁寧に聞き始めました。それを全部聞いてイメージを作って何軒か選んでおき、一緒に見に行ってその人が一番気に入ったところを選んでもらう。そうしたら、定着するようになりました。
自分で選ぶって大事なんですね、ただ与えられたんじゃなくて。
それをやるようになってうまく行き始めました。
野宿されていたオジさん達にアパートのお世話する時、敷金や礼金などのお金ははどうされたんですか?
そのお金は私がお貸ししました。皆さん、生活保護のお金から少しずつ分割でお返し下さって。
もちろん借用書も無しですよね。
契約書も借用書も書きません。
お貸しするときは新札をわざわざ用意されていたと聞いています。