入佐 明美さんのタイトル

Interview

テンプル ──

労働者のおじさん達は、入佐さんとの心の触れ合いを感じて人を信じられた。でも一般社会に出て行くと、偏見や差別がやはりあり、その中で佇んでしまう。人に心を開けると思ったけどやはり世の中は冷たい。そんなショックでまた心を閉ざされた方はいらっしゃらなかったですか?

入佐 ──

たった一人でもそういう出会いがあった、信じられたということの方が大きいじゃないかと思います。私が講演を頼まれて引き受けたのも、オジさんたちの思いを代弁したかった。私が本を書くのも講演するのも、原稿を書いたのも、結局は労働者の代弁者として筆を持ちたいし話がしたい。それに徹しました。

テンプル ──

そんなふうに人生をかけてされていたケースワークのお仕事は60歳で引退されました。それは病気がきっかけだったんですか?

入佐 ──

電磁波過敏症になったんです。テレビの前、冷蔵庫の前に行くと苦しくなる。眠れない。結局は心まで病んで入院してしまいました。

テンプル ──

ある日、突然始まったんですか?

入佐 ──

私、歯が悪かったんですね。義歯の部分の修理に、レジンっていう接着剤を使ったんです。その夜から眠れなくなって。心療内科に行って、電磁波過敏症じゃないかと言っても分かってもらえなくて…。私は電磁波過敏症が悪化したんだろうと理解しています。4ヶ月程は自宅で過ごしていたんですけど、もう生活ができなくなるぐらい眠れない、何も食べられない。それで入院しました。2年4ヶ月間。

テンプル ──

入院中はどういうふうに過ごされてたんですか?

入佐 ──

ひたすら寝て、食べて回復を待つだけです。ナースステーションは色んな電子器具があって電磁波が強いので、ナースステーションから一番遠い個室に入れてもらいました。個室といっても1日1000円だったので助かりました。検査しても肉体には全く異常がなくって、ただ眠れない。だから精神科に入院していました。 

ある程度元気になったので退院しました。そういえば、あの時、知久屋さんのお惣菜たくさん送ってもらってありがとうございました。1回しか会ってないのにあんなにたくさん送ってもらって、すごく助かった。

  一番左が小林正樹さん

  • 一番左が小林正樹さん
  •  

テンプル ──

あの時小林さんから、入佐さんが長く入院されてて、ようやく退院されたって聞いて「誰か入佐さんのご飯を作ったり世話をする人はいるんですか?」と、入佐さんの食べる事ばかり心配していました(笑)。お役に立っていたなら本当に良かったです。妹さんが近くにお住まいなんですよね。

入佐 ──

はい。吹田に住んでいます。入院中も郵便物を見てくれたり、週に1回見舞いに来てくれました。

テンプル ──

入院中、小林さんとはどうやって連絡をとっていたんですか?

入佐 ──

妹を通じて定期的にプレゼント送ってくださっていたんですよ。お手紙と一緒に2年4ヶ月間ずっと。正月にはお正月の置物、3月にはひな祭り、5月にはこどもの日の何か。そんなふうにずっとです。

テンプル ──

小林さんも神様に近い人ですよね。

入佐 ──

退院した時、私は電話する元気もなかったので、妹が電話をしたんですけど、妹がバカ丁寧に「この度、姉が…」と言い出したので、小林さん、私が死んだのかとびっくりされて…。 先に「退院」という言葉を何故言わなかったのって、後で妹に言ったんですけどね。

テンプル ──

あの時、入佐さん、自己肯定感の高い私でさえ、鬱になるんだっておっしゃってましたよね。今、振り返って、あの時のことはどう感じられてますか?

入佐 ──

入院したら、仕事はできない。それがきつかったです。私は仕事が生きがいでずっと生きてたし、何よりも仕事が一番でした。それが奪われるってやっぱりきつかった。薬を飲むのもきつかったです。退院後、薬は少しずつ減らして、5ヶ月で全部断ちました。その後は東洋医学でメンテナンスしています。入院前からお世話になっていた鍼灸に通ったり。

テンプル ──

歯のレジンはすっかり取られたんですか?

入佐 ──

入院後レジンを削ったりしたんですけど、ダメでしたね。皆さんの携帯電話がちょうどスマホになった時期で、本当にきつかったです。多分、私の体の中に電磁波が溜まって溢れてきたんだと思います。

テンプル ──

私はスマホとパソコンに囲まれて生活していますけど、入佐さんは携帯もなく、未だに家の電話だけですよね。パソコンも使われない。だから、人よりは電磁波の影響は少ないはずなんですけどね。

入佐 ──

東洋医学の先生がおっしゃるには、長年の疲れの蓄積だと。毎晩6時間ぐらいは寝ていましたけど、やはり熟睡はできていなかったんですね。皆さん、家族のない人ばかりだったので家族経由で近況を確認することも出来ないし、電話も持ってない。いつもどこかで気にかけていました。そういう環境で働くのは、気がつかなくても心と身体に負担になっていたんでしょうね。

テンプル ──

お父さんは入佐さんの活動を、ずっと後押しされていましたか?

入佐 ──

辛くなったらいつでも帰っておいでって、ずっと言ってくれていました。父は町会議員だったんです。 議員として24年働き、いつも地域の人のことを考えていました。父は行動力がありましたが無口な人でした。労働者の人は鋭いところがあるんですね。「あなたはお父さんのことで嫌な思いしたことは一度もないやろ」って言われました。「何でですか?」って聞いたら「じゃないと釜ヶ崎には来れん」と。確かに、父のことで嫌な思いをしたことは一度もないの。怒られたこともないし。父は無口だから否定するような言葉もないし。ただただ私のことを受け止めてくれた優しい人でした。

テンプル ──

テンプルで講演会をして下さった時、入佐さんは「私は父親に愛情いっぱい育ててもらったので、男の人に対して怖いという思いが全くないんです。だからか釜ヶ崎に行けたんです」と言われていたの覚えています。

入佐 ──

それを労働者の方が見事に見抜いたんですね。父に対して嫌な思いが全くないことを。「もしお父さんが厳しい人だったら、男性社会で緊張して歩かれんし、暴力を振るう人だったら怖くて歩けない」って。父親が女遊びする人だったら男性に嫌悪感も生まれるでしょうし。でも私は幸いなことに男性に全くマイナスのイメージがないの。だから続くんだって。こういうのは自分の努力じゃないんです。

テンプル ──

岩村先生もそういうところを見抜かれたんでしょうね。

入佐 ──

母方の祖父にもマイナスのイメージがなくて、とにかく「あけちゃんは宝物」っていうふうに育ててもらった。祖父にとっては初めての孫だったから。野宿して死にかかってる高齢者がいると、自分のお祖父ちゃんに思えるんですよ。そしたら何かしないと落ち着かない。その連続。 

労働者は労働者で、私のことが娘とダブルんですって。そしたらどんなことでも我慢できる。お互いの無意識の力がうまく働いたんだと思います。 

父は政治家だったし、母は PTAや地域の役員をしたりして、よく出かけていました。両親ともが家にいないか、家にお客様がいっぱい来ているか。だから小さい時から人間相手が平気なんですね。人見知りもしないし。そういう環境で育ったから釜ヶ崎でやってこれたのかも。 

無口だった父がこんなこと言ってました。ケースワークの仕事はとても大事なこと。でも政策を変えていくと言う視点を持たないと限られた人しか助けられないよ。そして、引退も大仕事だよって。だから引退も大事にしなさいと、この2つだけは言ってました。 

私はそんな父を、さすがだなあと感心していました。普段無口でまったく能書きとか言わない人が、へぇーと。 

病気になった時は60歳だったし、もう何の未練もないんです。もっとしたかったという思いもない。そんなに勉強ができるわけでもなかったのに看護師になって、釜ヶ崎でも仕事させてもらって。自分にはちょっとの能力しかないのに、大きな仕事をさせてもらった。すごく自分の能力を引き出せてもらったと思います。私が子供の頃の鹿児島は男尊女卑が残っていたから、女性が人の前で話をするなんて考えられなかった。本も出版させてもらったし、自分の能力以上の仕事をさせてもらった。やるべきことは全部やったと何の未練もない、それが正直な気持ちです。