普通の教会は敷居が高くて、ある程度の暮らし以上の人じゃないと行きづらいんです。なので私はとにかく敷居を低くして、どんな人でも堂々と出席できるよう、それを目標にしてきました。献金もありませんでした。誰にも気づかれないように、他の日にそぉっと献金を持って来られた方もいらっしゃいましたが、献金のことは何も言わなかった。
これは私の個人的な体験なんですが、以前、ある有名な作家さんが通っておられた教会の日曜礼拝に連れて行ってもらったことがあります。お祈りや説教が終わった後、その教会では、まず、クリスチャンかクリスチャンじゃないかで参加者が分けられ、次にその教会に属している人かそうじゃないかで分けられました。すると私は、その教会に属してないし、そもそもクリスチャンじゃないし、一番最初に外されたわけです。 区別されても仕方がないと頭では理解出来ましたが、なんだかとても寂しい思いがしました。イエスがこの場にいたら、こうやって集まった人を分けるのかしら?とも感じました。もう20年以上も前の出来事で、その日の説教はすっかり忘れてますが、この出来事だけは今もはっきり覚えています。
普通に生きている人でもそう感じられたわけですよね。 釜ヶ崎の人はなおさら生きていけないです。
差別や区別に敏感ですものね。
子供の頃から差別を受けて来られた方が多いですし。
集会後、ご飯を食べたら、皆さん、すんなりお帰りになったんですか?
30分でご飯を食べたら、すぐにそれぞれお帰りになられました。みんな15分前から集まって時間に遅れる人もいませんでしたし、終わったらサッと帰られる。
入佐さんとお喋りしたいこともあったでしょうに、そこは皆さん、入佐さんに負担がないようにきちんと律せられていらしたんですね。クリスマスやお正月には特別なことをされたんですか?
簡単ですけどね。 お正月はお元旦礼拝をして、雑煮を出しました。そしたら雑煮を食べたのが30年ぶりという方もいて。
26年間続けてきた集会を終えられたのは、ケースワーカーとしてのお仕事を辞めたことが理由ですか?
病気になりましたからね。でもその時には、残っていたのは一人だけだったんです。皆さんもう亡くなられていて。
そのお一人のために続けられていたんですか?
お互いの生きがいになっていましたから。
今でも印象に残っているオジさん達のエピソードお聞かせいただけますか?
エピソードや思い出はたくさんあります。ケースワークって目の前の困った人のお世話をするってことですよね。その人のお世話をしているうちに、また新たな困っている人と会います。 世の中が不景気になった後では特に。
ケースワークは起こってしまった出来事に表面的な関わりは出来ますが、本質的な関わりにはならないんです。 弱い立場の人を生み出している大元に関わった方がいいんじゃないか。そういう風に思うこともありました。だからケースワークのお仕事って虚しいなぁ、と感じることもあって…。
そんなことを感じている時に、「あなたのやってることは焼け石に水」とか「雑草の葉っぱばかりちぎって根っこは残ったままだから根本解決にはなっていない」「いくらやっても資本主義は変わらない」…そんなことを何度か言われて、自分のやっていることがとても虚しくなって落ち込んでしまったことがあります。
そんな折、たまたま会った釜ヶ崎の人が「ねえちゃん、今日は元気がないな」って声をかけて下さって。それで、その人に、その時思っていたことを全部言ったんです。その人は道端に座って、最初から最後まで私の話をずっと聞いて下さいました。それこそ身体全体が耳になったような感じで、ずーっと聞いて下さったんですね。
そうやって話を聴いてもらっているうちに、自分の内面にあったものが全部出たっていう感じがしました。そして「ねえちゃん、大きいことは考えんでいいんちゃうか。なんぼねえちゃんが死に物狂いで頑張っても、青春を注ぎ込んでも世の中変わらへん。でも、ワシら、ねえちゃんが毎日『こんにちは』と言って声をかけてくれる。それだけで十分なんやで」と言われたんです。
「一番大事なことは、みんな一人で寂しい中で生きてるから、とにかく話を聞いてやって。それで十分なんや」って。そう言われた時に、私の心がまるで乾ききった脱脂綿が勢いよく水分を吸いこむみたいに、その人の言葉ですごく潤ったんです。私には社会変革とか大きなことはできないけど、自分が与えられた役割、目の前の人に声をかける、話を聞く。そういうことを徹底してやっていく。それが自分に与えられた役割なんだと、すごく安定しました。
それは釜ヶ崎に入って何年目の出来事ですか?
2、3年目。その時は、すごく不況だったんですね。目の前にいる人が、1週間食事をしていない。そんなことばかりが続いていました。1982~3年の頃。