神様は、ピンポイントでいい人を鹿児島で見つけましたね。
もし、父やお祖父ちゃんとの関係が悪かったら、私は釜ヶ崎で3日も持たなかったと思う。二人との関係が良かったから、私も釜ヶ崎でなんとかやってこれた。父やお祖父ちゃんに悪いイメージを持っていたら続かなかったでしょうね。
神様は、入佐さんがお父さんとお祖父さんから愛情いっぱい受けて育てられたことをよくご存じだったんですね。
岩村先生はそういうのパッと見抜かれたんでしょうね。
ミツダナオコには、この話は来ないですよ、神様から。 私は道路で寝てるオジさんがいても声はかけられないし、道路の反対側を歩きますもん。
私も、ここで仕事をすると腹をくくったからこそ、声がかけられた。声をかけたら責任が伴います。普通に生きていたら、その責任は担いきれないです。
入佐さんとの電話で、このインタビューのテーマは「隣人とは誰なのか」だと言いましたよね。ケイシーのリーディングであるんです「自分にとっての隣人とは誰か」というのが。
『あなたは、あなたの兄弟に対して、隣人に対して、責任を負わなければならないことを、心の中で理解しなければならない!では、誰があなたの隣人であるか? 隣に住む人がそうであるのか、世界の反対側に住む人がそうであるのか?
理解を必要としている人がそうである! 躓いている人がそうであり、道に倒れている人がそうである。 その人こそがあなたの隣人であり、あなたはその人に答えなければならない!』(3976-8)
私は、自分自身だと思う。まず、私にとっての隣人は。
どういう意味ですか?
私が釜ヶ崎に入った時、カウンセラーをしていた人が、釜ヶ崎でやって行こうと思ったら、絶対的な自己肯定感がないとやっていけない、潰れるよと言われました。私の中に、ふたりの私がいるような、そんな感じがしています。隣人を愛しなさいと言う前に、まず自分で自分を愛することから始まる。自己肯定感や自己重要感を豊かにしないと、他者にはできない。
挨拶をしても、挨拶が返ってこなかったり、冷たい言葉が返ってくると、その言葉の棘がなかなか抜けなかったり、それだけで凹んでしまいますよね。一所懸命お世話をしても感謝されなかったり、かえって嫌なことを言われたりもあったんじゃないですか?
例えばアパートを世話した人で、ねえちゃんが生活保護を申請してくれたからアパートに入ってやったんだ、みたいなことを言う人がいたようですが、そういうときは確かに気分は一時的にはしんどいけど、気にならない。神様の前で自分が与えられた役割を誠実にするかしないか。その方がもっと大事。
自分がしているのは人からではなく、神様から与えられた仕事。神様の前で誠実に仕事ができるかどうかの方が私にとっては大事。だから私は、人とは違うところでエネルギーを使ってるんだと思います。人の評価がみんな大事でしょ。
私は親のおかげで、少しだけ自己肯定感や自己重要感があったと思うし、子供の頃から競争をすることなく生きてきたんです。兄弟の中でも長女だったから絶対肯定だった。母方のお祖父ちゃんは戦争にいった人だったので、私が女の子だから戦争に行かなくて良かったって、私を宝物のように育ててくれました。父方でも初めての女の子だったし。
父は、私がいてくれたらそれでいいという人で、運動会でいつもビリだったけど、そんなの全然気にならない。お祖父ちゃんもそれを受け止めてくれる。高校も自分の学力で入れる所を選んだし、好きな卓球ばっかりしていたから、人と競争したことがほとんどなかった。人と自分を比較したり、比較されたことも少なかった。
劣等感もなかったでしょうね。 あの人は素晴らしいなぁっていう憧れの気持ちは抱いても、「あの人みたいになれない自分はダメ」という思いとか。
あの人は素晴らしい。そして自分もまあまあ。釜ヶ崎では、それこそボロクソに言われるわけです。「出ていけ」とか「こんなところ女が来るな」とか、性格を突かれたり…。「女のくせに何ができるか」とか、朝から晩までめちゃくちゃなことを言われました。そんなことを言われたら、やはりマイナスのエネルギーを受けて落ち込みます。でもあまり気にならない。凹むけど、次の日には平気になっています。
比較がないっていうのは大きいでしょうね。 今は、Facebook やインスタグラムを見て、あの人はここに行った、こんな美味しいもの食べてる、こんな素敵な人と会ってるって、そうじゃない自分と比較したり…。SNS って、自分の見せたいところだけが上がってくる場だと思っても、つい羨ましさを感じたり。
何で、そんなことにみんなエネルギー使うの?もったいない。
日本は、みんなと同じが大事。他の人と同じように生きなきゃという焦りや同調圧力がありますね。
そんなことしてたら一生焦って生きなきゃいけないじゃないですか。私は基本的にみんなそれぞれ違っていいし、その場その場でその人に幸せ感があればそれで十分。