清水 浦安さんのタイトル

Interview

テンプル ──

でも、それにもめげず、今度はピザのチェーン店を始められた。

清水 ──

いえ、めげてました。かなり借金も残りましたし社長の父親は青ざめていました。しばらくボーっと過ごしていたんですが、ある時テレビを見ていたら、ドミノピザの3号店オープンのニュースをやっていたんです。ピザの宅配のCMも流れて「なんという不思議な商売なんだろう」と、次の日すぐにドミノピザを食べに行きました(笑)。美味かったです。それでまた衝動が起こって、それから1カ月毎日ピザを食べに行きました(笑)。

いったい何台のバイクが走っているんだとカウンターを使ってピザ屋の配達状況を数えもしました。メニューと価格みたら、おおよその売上と利益が計算できますから、こんなんで商売になるんだ、不思議だなぁ。そうだ、これを仕事にしよう!と、すぐにドミノピザの本社に電話しました。でも直営店以外はやらないと断られまして…。 あぁダメなんだ、どうするんだ。でも諦めきれない。ピザは生地が大事だからと、大手のパン会社に片っ端から電話もしました。でも全然、相手にしてもらえない。そこで、弁当屋をやっていたときのツテで、今度は三菱商事の系列の菱食をはじめとして、食品を扱っている商社に電話しました。最終的に食品の大手だった東食(*現・株式会社カーギルジャパン)の担当者と会えることになりました。

というのも、たまたま東食にアメリカのシカゴから、ピザの食材を扱わないかと問い合わせが来ていたタイミングだったんですね。なので、僕のような「いちげんさん」でも会ってもらえることになって…。ところが「どれくらいの事業計画ですか? 何店舗くらいの計画ですか?」と聞かれて困ってしまって…。それで「3年後に100店舗を考えています」と出まかせに言ったら、「分かりました。では詳細な事業計画を出して下さい」と言われ、今度はその事業計画書の書き方が分からない。途方に暮れつつ、なんとか書き上げて持っていきました。

その事業計画が何故だか無事審査に通りまして、昭和製粉を紹介されて、昭和製粉の研究所でピザの粉の開発を始めました。粉の配合、発酵時間、どのイースト菌を使うかなどをスタッフさんが一緒に考えてくれて…。

テンプル ──

え-。ピザの生地のレシピ開発から始まったんですか! 本格的なピザだったんですねー。

清水 ──

そのピザ屋も最終的には売却したんですが、実は僕が始めたピザのお店、まだあるんですよ。福井と金沢に『テキサスハンズ』という同じ店名とロゴのままで営業を続けています。数年前に金沢に行ったとき食べたんですが、美味しいピザでしたよ。まだ残っているなんて嬉しかったなぁ。

テンプル ──

そのピザ屋の経営時代ですか? お父様が不動産取引で多額の借金を作られて…。

清水 ──

ピザ屋で成功してお金ができたもので父が不動産に手を出してしまったんですね。 3億7000万円という大きな額だったので自己破産もできたんです。ところが、相談した弁護士の態度があからさまに上から目線で、「君には返済不可能だろう」みたいな扱いを受けたので、ついカチンときて「自己破産しないで返す!」と言ってしまったんですね。

テンプル ──

後先考えずに放った一言が運の尽き。でも、その借金を返しているさなかに「吉田寅次郎」を名乗る人物が清水さんの心の中に現れるようになられた…?

清水 ──

ピザ屋は午後11時までの営業で、アルバイトの手配がつかない時には僕が深夜まで後片付けなどしていました。仕事が終わって夜中1時過ぎに自宅に帰って寝ていたんですが、あるときから朝5時頃になるとどこからともなく「おはようございます」という声が聞こえてきたんです。「おはようございます」だけで他には何も聞こえない。振り返っても誰もいない。挨拶し返すと声が消える。1カ月近くも続くとさすがに変だなぁ、何が起こっているんだと心配になり始めて…。

ちょうどその頃、2番目の子供がまだ2~3歳ぐらいで、子供が離乳食を食べる小さなちゃぶ台のようなものがあったんですね。ある時「おはようございます」と声が聞こえたので、起き上っていってそのちゃぶ台の前に座り「おはようございます」と返事をしていたら、その様子をたまたま女房が見ていて「何、寝ぼけてるの」と。そしたら女房の顔を見て「これは奥方、失礼した」と口が勝手にしゃべったんです。いったいこれは何事かと、本当にびっくりしました。

あまりにもわけが分からないので、知り合いのOさんに相談しました。すると「それは誰かの霊に取り憑かれているに違いない」とお祓いを勧められて、地元で有名な神社を紹介され、お祓いを受けました。でも翌朝、明け方になるとまた声が聞こえてくる。仕方がないのでOさんに別の神社を紹介してもらって、お祓いを受けなおしたんですが、やっぱりダメ。霊能者のお祓いを受けたときには、そのお宅から帰る道すがら「そんなことをやっても無駄だ」と声が聞こえる始末で・・・。

テンプル ──

わー。その声の主の方が1枚も2枚もうわてだったんですね。でも、自分は精神的におかしくなってしまったとは考えなかったんですか?

清水 ──

そんなことは一切考えませんでした。毎日ご飯を美味しく食べられて、普通に生活できていたわけですから。でもとても困っていたので、またOさんに相談に行ったんです。Oさんは地元の名士なんですが、お忙しいなか、とても親身に相談に乗って下さって…。

Oさんと話をしているうちに、Oさんが「清水君に取り憑いている者!失礼だ。名前を名乗れ!」と言ったんです。そしたら僕の姿勢が急にスッと伸び、「それは失礼つかまつった。拙者、吉田寅次郎矩方(のりかた)と申します」と言ったんですよ。するとOさんが「ちょっと待っていて下さい」と言い残し、しばらくして1冊の本を持って戻って来られました。「もしや、この方ですか?」と聞くと「いかにも」と。吉田寅次郎矩方とは吉田松陰の幼名だったんです。

えー、本当かなーと思いつつ、Oさんが吉田松陰が書かれた『留魂録』の中から、吉田松陰に取り憑かれた僕にいくつか質問をしたら、驚くことに、それにちゃんと答えるんですね。吉田松陰というのは後の人が言っていた名前で、当時はみんな自分のことを「トラ、トラ」と呼んでいた。だから彼は自分のことを吉田寅次郎矩方と名乗ったわけなんです。

吉田松陰の画像

Oさんは若い頃から政治家を志していたので、吉田松陰の大ファンだったんです。何冊も吉田松陰に関する本を読んでいました。それで、この声は本当に吉田松陰の霊なのか、正体を暴いてやろうと幾つも質問して、それに尽く僕が答えるものだから、これはいつもの清水君ではないと。

それで後日、 Oさんは友達数名に声をかけ「清水君がおかしくなってしまった。正体を暴き出したいので手伝ってほしい」とその吉田松陰に話を聞く会を催しました。何を聞くべきか事前にレジメを用意して質問し始めると、僕の姿勢がすっと伸び、どの質問にも朗々と答える。それがきっかけで『魁塾』という名前で勉強会が週1回のペースで始まったというわけです。その中に津留晃一さんもいました。