清水義久さんのタイトル

Interview

テンプル ──

清水先生はいつも迷いなく、「願ったら叶う」と断言されていますよね。「できないわけがない」と。普通は「叶うかもしれないし、叶わないかもしれない」と、どこかに「できなくても仕方ない」という余地を残してしまうものなのに(笑)。だから、清水先生はすごいなあと思います。揺るぎない自信を持っていらっしゃるんだなと。それだけ積み重ねてこられた経験と実績がおありだからなんでしょうね。

どのセミナーの時だったか忘れてしまいましたが、清水先生が「僕は君たちが思っているよりも凄いんだよ」と仰っていたことがあって、どう凄いんだろう、と(笑)。全く想像がつかないので。

清水先生 ──

まあ、そんなことを言う奴は大したことはないんですよ(笑)。

テンプル ──

いや、そういうふうに言えるというのは、長年の積み重ねとそれに伴う確信があるからですよね。ご自身に対する絶対の自信みたいなもの。

清水先生 ──

まあ「確信を持って行う」ということ自体がいつもの技ですから。居合いに似ているんですよね。一太刀のみで二太刀(にのたち)はなし。刀を一回抜いたらもうそれで全てが決まり、失敗したら死んでしまうというような。僕はそういうセンスで願望実現や病気治しというのをやっています。

その時には、限りなく一瞬の瞬間に全てを没入できる能力を作っていきます。アナログの時計の秒針がカチッカチッと動いているのをずっと見ながら変性意識にすーっと入ると、時計が止まった感覚になります。でも、意識では、あれ? 何で時計が止まっているんだろう?と普通の脳の速度で思っています。具体的にいうと、自分の脳波をシータ波以下=いわゆる空とかサマーディ状態にもっていき、限りなく「一瞬」の間に没入するということをやる。つまり一秒を永遠のように感じていくわけですが、その状況というのは、過去から現在、未来の時間を一瞬、この一部だけ切り取り、この一秒の間にたとえば「病気が治った」と確信し、いま目撃したかのようにフィールしてシンキングする。そしてエネルギーを出します。※2

後で治るだろうとか、このエネルギーによって数十秒後からこの人が治っていきつつあるとか、そういう感じではない。「治れ」、「治った」、というもっとダイレクトな世界なんです。能力の使い方自体が、「できるに決まっている」と最初から確信するというスタイルなんですよ。だから自信ではないんです。セミナーや動画で自信満々に語っているところだけを切り取られると、「こいつは傲慢でプライドが高くて嫌な奴」だと思われるかもしれない(笑)。でもそれはその人が僕の「我」の部分を見ているからで、実は逆なんですよ。むしろ「我」をすべて消し、成功した出来事を客観視しているから、「できた」という結果に繋げることができるんです。

たとえばがん患者さんを目の前にしたときには、先のサマーディ状態に入って「我」を完全に消してしまいます。そして、その人への心配や助からないという恐れ、神様も誰も助けてくれないという不安、さらにはその人がガンだという状況さえも消します。そうやって何もなくなったところにイメージ上で白いボードを出し、「元気になってよかったね」とだけ書く。あれ、何だっけ?この人が元気なのか。良かったですね、とエネルギーを出して終わり。目を開けると、「ところで何がよかったの? あなたはガンだったんだっけ。でも、もう治っていますよ。僕は何があったのか知らないけど」と。するとこの現実世界でも本当にその人のガンはなくなっている。そういう感じなんですよ。ケイシーがリーディングをするときに自分を消したように、無我になることで客観的世界だけを際立たせるやり方。だから、これはケイシーの感覚に近いというか、ケイシーのパクリから生まれたアイデアなんです(笑)。

  • 2 エネルギー……清水先生のセミナーで伝授される気のエネルギー。

テンプル ──

そのような境地になるために、私たちはケイシーが遺した『神の探求』という霊性向上のテキストブックを使って神のうちに自分自身を捨てる、ということを徹底的に練習していくんですが、清水先生はすでにそのような境地に入られている気がします。

ところで、願いを叶えるといえば、清水先生のご著書によく出てくるフレーズに「良い人間になります。ありがとうございました」という言葉がありますよね。たとえば「出雲の神さまにまかせなさい」の本では、このフレーズを言った後にお願い事を言うということが、究極の神頼みの方法だと書かれていました。でも「良い悪い」というのは人間の決める価値基準であって、神さまの意図する良し悪しとは違うんじゃないのかな?と思ってしまうんですが。

清水先生 ──

確かにそうですね。でもそこは悩むことなく、ただその文言を言えばいいのです。たとえば戦争でやむなく敵を殺めなければいけないという事態になったときに、「良い人間になりましょう」と言ったって、まったく説得力がないではないか。そう言われたら確かにそうです。多くの人は、親切で善良で模範的であることを「良い行為」とイメージしている。でもその基準も人によって違うわけですよ。しかし、このノウハウを行うときには、あえてそれを哲学的、倫理的、文化的価値観のなかで議論することもないし、実際の出来事と結び付ける必要もない。つまり具体的に「何を良い行為」とするかを考えずに、ただ「祈り」として切り離すことが必要なんですよ。そうして文言を唱えて祈っているうちに、その言葉を通して開けていく上位構造があり、そこから気づきが「降りて」くるようになります。そして、何が良いことでどういう風に行動していくとよいのか、といったようなことが分かるようになる。その文言の祈りによって、自分の潜在意識とそれを超えた内なる神との対話が始まるようになるんです。一人一人にケイシーの行っていたようなリーディングが始まるんですね。

テンプル ──

なるほど。まずは深く考えずに口に出せばいいと。そのうちに自然と気づきのプロセスが起こってくるということですね。

清水先生 ──

そうです。文言の祈りを続けているうちに、ふと「良いとはどういうことなのか?」という問いかけが起きてきたら、それを自分の心に返してみる。すると顕在意識が「こういうことじゃないかな?」と思いつくかもしれない。そうしたら、そのことについてまた自分の心に戻してみるんです。

たとえば、「南無妙法蓮華経」や」「南無阿弥陀仏」etc.……を唱える東洋のマントラ行は、芸術や音楽の世界に近いもの。木魚や太鼓を叩いたりしながら、ビートとリズムを刻んで繰り返すということを技の本質としています。音の響きが肝になる瞑想のやり方で、非常にフィジカル的なメソッドですよね。もちろん、それはそれでとても意味のある方法です。

それに対して、僕がいま言っているのは「キリスト教的な祈り」。「『良い人間になります』とはどういうことなのかな?」と、その意味を頭で考えながら、文章そのものをハートで感じるようなやり方です。東洋的なドラミングとフィールではなく、ゆっくりと「良い人間になります。ありがとうございました」と感じる。そして思う。ひとつのセンテンスを黙想し、繰り返しそのフレーズについて思いを巡らせるというのが「祈り」という行為の真髄。それによって本質生命体との回路が開けていき、志や誠の道、神様との繋がりといったものが生まれてくるんです。そうなると心の安定を得られるばかりか、願い事も叶いだすから一石三鳥、四鳥の世界になるでしょうね。だから僕自身はこのやり方を、ケイシーリーディングの出力系だと思っています。

テンプル ──

またしてもケイシーのことに触れていただいてありがとうございます(笑)。今日は、どのようにして清水少年が今の清水先生になったのかお聞きしたかったのですが、残念ながら、そろそろ時間が来てしまいました(涙)。

まだまだお伺いしたいことは沢山ありますが、最後にテンプルの読者に向けて、清水先生とっておきの秘儀を教えていただけないでしょうか?