山本清次さんのタイトル 

Interview

テンプル ──

プロフィールを読みますと、17歳からすでに整体を始められたと書いてあります。中学時代には新たな学びをされた、ということでしょうか?

山本先生 ──

中学時代、僕の周りには不良と言われる男の子が多かったこともあり、彼らに武術を教えるようになりました。14歳にして、校内、校外含め、弟子が30人ばかりおり、師匠と呼ばれてました。不良にいじめられているような同級生を集めて稽古もしていました。それが高校時代まで続きました。高校時代は、物を持ったことがないんです。鞄を持つことも、宿題を提出する必要もなく、自転車も正門まで乗って行くと、あとは誰かが自転車置き場まで持って行ってくれる。お昼に学食に座れば誰かがご飯を持ってきてくれたのでお金を使うこともない。そんな高校生活でした。

テンプル ──

小学校1年のときには草をむしって食べていた子どもが、高校時代には、どこかの王子さまのような扱いを受ける身になったわけですね。 老師のもとで学んだことで、すでに指導者の風格が身についていたんでしょうね。

山本先生 ──

人の相談もよく受けていました。学校の先生からの相談も受けるようになっていましたし武術の稽古で身に付けた人体の急処等を使って同級生達の健康相談も受けていました。

テンプル ──

その相談に応じられる叡智はどこから湧き出ていたんですか?

山本先生 ──

老師がこの本を読みなさいと与えてくれていたのが 老子の『道徳経』だったんです。 難しくてチラリと読んでは諦め、ちらりと読んでは諦めしていましたが、老子から聞いた言葉もいっぱいあり、それをとにかく覚えろと。老師から聞いた一言、一言をひたすら覚えていきました。   「老子」蜂屋 邦夫訳

テンプル ──

それがいつのまにか山本先生の血となり肉となっていたんですね。昔は日本でも幼いころから意味はわからずとも儒教や朱子学などを学んで暗唱させられていたそうですが、そういうのが後々、人間力を築く礎になっていったんでしょうね。そして17歳からすでに人を施術するようになられた。

山本先生 ──

17歳の時に父の仕事の事情で岡山の山奥に引っ越し、農業を始めました。そして、その山の人たちを治療をするようになったんです。しばらくすると、大阪などにも呼ばれるようになったんですが、24歳の頃に自分の治療技術の限界を感じるようになっていました。すごく難しい症状の会員さんが来られるようになっていましたし、2、3人を施術をするとヘトヘトになっていたんです。このままでは自分が壊れると感じるようになっていた頃に、野口整体を学ばれていた岡島瑞徳先生の本との出会いがありました 。

テンプル ──

岡島先生がされてるのが野口整体だということはすでにご存じだったんですか ?

山本先生 ──

はい。18、19歳の頃、人相学の先生との出会いがありました。その人相学の先生から、この本を読んでおけと渡されていたのが野口晴哉先生の『風邪の効用』でした。

テンプル ──

本にしても人にしても、タイミング良い出会いと導きが続いてますよね。

山本先生 ──

その人相学の先生は目黒玄竜子相法と水野南北相法の人相学を二つとも治められた方だったんですが、治療についてもよくご存知の方で、また、知花敏彦先生のもとで学ばれた方でもあったんです。

この人相学の先生との出会いは、そもそも僕の腕に腫瘍ができたことがきっかけでした。

18歳の頃、お金がないので、よく道路工事のアルバイトをしていました。ある時道路を掘っていたらシャベルがガツンと石に当たりました。その途端に腕が痺れ、腕が上がらなくなってしまったんです。あれ?と見たら腕に腫瘍ができていました。病院に行って生体検査をすると、たぶん悪性の腫瘍でしょうと。どうやったら治るのかわからないので、じゃあ、とりあえず天河神社で瞑想しようと、同級生と天河神社に行ったんです。

テンプル ──

え~?? 癌が見つかったから、じゃあ天河神社で瞑想しようと思われたんですか。その発想と行動も並じゃないですねぇ。

山本先生 ──

そうですね(笑)。当時はナビがありませんから、迷いに迷って奈良の山奥の天河神社に向かいました。 天河神社に着くと宮司さんが奥から出て来られたので事情をお話しすると「それなら本殿の奥で、氣が済むまで瞑想してお帰り下さい」と本殿にご案内下さいました。

とはいえ、天河神社で瞑想したからといって癌は治らないわけです。瞑想しても治らないなら誰かに委ねようと、頭に浮かんだのが知花敏彦先生でした。

当時、アルバイトで貯めたお金が15、6万ありました。それを元手に清里にあった知花先生のペンションに行きました。でも最初は知花先生ではなく、まずお弟子さんからヒーリングを受けなくてはいけなくて…。10日間、滞在する予定にしていたので、何度かヒーリングを受けたんですが、やはり癌は消えない。そのうちに、やはり癌患者だった青山さんっていうお婆ちゃんとの出会いがありました 。「あなた治療するんだって。じゃあやって」と目の前で横になられたので治療を行ったところ「あなた、まだまだ勉強が足りんわ。明日、いい人が来るから紹介してあげる」 と紹介して下さったのが、その人相学の先生だったんです。

すごい面倒見のいいおばあちゃんで、あなたはこの先生について勉強するといいよと。

人相学の先生も毒舌でとても厳しい先生でしたが、ちらりと僕を見て「ある程度ヒーリングができる人だね。じゃあ教えてあげる」と言って下さいました。でもその時、僕は両手首や首にブレスレットなど宝飾品をつけていたんです。でも「それを全て外せ、そんなものに頼っている場合ではないから捨てて来い」と言われ、自分の部屋のゴミ箱に全て捨てて戻って行きました。その後、その先生からヒーリングを受けるようになりました。

その人相学の先生、実は知花先生から唯一ヒーリングで人の体を治療することを許可された方だったんです。その先生のヒーリングパワーが凄くて、他の生徒さんとは比べ物にならない。力の差にビックリしました。 でも人相学の先生が「知花先生のエネルギーはもっとすごいぞ」と。

翌朝、知花先生の講座がありました。5分ほどすると先生が手招きをされて「前に」と言われたんです。誰のことかと思ったら僕でした。立ったままヒーリングを受けたんですが、それがまたすごい。こんなに人によってエネルギーの差があるのかと思うほどの威力を感じました。意識やその人の瞑想の習熟度によってエネルギーが違うのだということもしっかりとこの時に学ばせて頂きました。3度ほど知花先生からはヒーリングを受けることが出来ました。

またある時、青山のお婆さんが「着いてきなさい」と知花先生のご自宅に一緒に伺ったことがありました。「あなた、よく見ていなさい」と青山さんが知花先生の前で横になられたんです。つまり自分を治療してる知花先生をよく見ていなさいと。

青山のお婆ちゃんのおかげで人相学の先生とも知り合い、また人相学の先生が大阪在住だったので、当時住んでいた岡山から大阪まで通うようになりました。知花先生も月に1回大阪に来られていたので、そこにも通うようになりました。