マスター・プラブジ、マスター・サティシュジ氏のタイトル

Interview

テンプル ──

私たちの習得はとてもゆっくりだと言われましたが、では、お二人がプラブヨガを学び始めた頃、まだ練習をしている時代というのは、どのようにヨガを研鑽されてきたんですか?

プラブジ ──

故郷のコインバトールの家の近くに伝統的なヨガを学べる場所がありました。そこへグルがヨガを教えに来てくれていました。そしてごく僅かな生徒だけが、グルからディクシャ(教えの儀式)を授かり、グルの家で本格的にプラブヨガを教えてもらうことができました。直接グルの自宅へ習いに行っていました。ドゥロナチャリア•マニカム師です。彼は毎日生徒に教えていました。先生に質問はできず、師に「これをやりなさい」「これを食べなさい」と言われるがままで、厳しい指導は当たり前でした。でも、それは立派な躾の1つでした。

大学時代やエンジニアとして働いている時には私は西インドにおり、サティシュジは南インドで大学のプログラムコーディネイターや宇宙工学のエンジニアをしていました。

サティシュジ ──

ヨガを始めたきっかけですが、私が7歳、兄が8歳のとき初めてヨガの先生のところに行きました。最初、ヨガの本を見せてもらい、そこにあった最初のポーズが脚を頭に乗せるものでした。「では、やって下さい」と言われたら、兄はすぐにそのポーズが出来たんです。先生はとても驚いて「君はヨガをやるために生まれてきたんだね」と両親に言っていました。

子ども時代のヨガ

今でこそ、両親もヨガをしていますが、当時はヨガのことは何も知りませんでした。ヨガマットすらない環境で、いつも畳のような床の上で直接ヨガをしていました。時にはセメントの床の上でもやりました。快適な環境を誰も作ってくれないわけです。先生も教えることを優先して、施設を整えることは後回しだったんです。

国際的なヨガコンテストに出場するための厳しい指導もありましたが、私の優先順位は、アーユルヴェーダ、シッダ医学とともにヨガセラピーを学び、社会の役に立つことです。

私は250人の中から選ばれたマスター・オブ・ヨガセラピーのゴールドメダリストも持っています。これを取得するには、さまざまなヨガの学科試験をクリアしなければなりません。パフォーマンスやヨガに関する研究論文に加え、審査員8人の面接をクリアしてようやくゴールドメダリストになれるのです。ですから、RYT200や300を修了した皆さんにも、試験をクリアすることで資格の価値を感じていただければと思っています。

授賞式の兄弟

テンプル ──

お二人がプラブヨガを世界で教え始めて、それほど年月は経っていないと思いますが、一番プラブヨガが浸透しているのはどの国ですか?

プラブジ ──

世界中に生徒はいます。例えば、シンガポールで学んだ人が他の国に教える、ということもあります。するとその国の人から来て下さいというリクエストがきます。それぞれの国でいろんなレベルの生徒さんがいますから、比較はできないです。

テンプル ──

初めての来日はいつですか?

プラブジ ──

2018年です。最初は新幹線に乗りたくて、サティシュジと2人で来日しました。インドでもシンガポールでも新幹線のような超特急に乗ったことがなかったので、乗ってみたかったんです。いろんな国に行ってきたけど、やはり日本に行きたいなと。それで5日間のJRパスを購入して、東京から広島にまず行き、平和公園と原爆ドームを訪れました。私たちはもともとエンジニアだったので、原爆の影響を確認したかったんです。多くの方が亡くなられた状況を知ってとても悲しい気持ちになりました。その後、京都に行き、お寺を巡りました。その時は日本のタクシーの乗り方も知らなかったし、シンガポールのSIMカードだったので携帯が使えず、2人でひたすら歩いて京都観光をしました。それにベジタリアンレストランも見つからなかったので、何も食べられませんでした・・・。

サティシュジ ──

そこで日本とタミル文化はとても似ていることに気がつきました。インド文化ではなくタミル文化です。例えば男女間のコミュニケーションや母子関係はとても似ています。日本は母親と子どもの繫がりがとても強いですよね。私たちは南インド・タミルナドゥ州、タミル文化圏の出身ですが、家の中では靴を履いてはいけません。玄関で靴を脱ぎます。日本人の皆さんはとても丁寧に話されますが、それもよく似ています。日本語の文法とタミル語の文法は同じです。文化的な類似性があったからこそ、日本にプラブヨガの会社を作りたいと思いました。

 参考)『タミル語と日本語』大野晋著