山田周生氏のタイトル

Interview

テンプル ──

そうやってサハラ砂漠を縦断して、日本に帰ったらまたお金を貯めてサハラに行くということを繰り返されたんですか?

周生 ──

そうなんです。実は、初めてサハラ砂漠に行ったときには、そのままインドまで走って2年間を放浪していました。その翌年の冬はまたサハラに戻っていました。

テンプル ──

2年間を海外で過ごす生活費やバイクの維持費はどうされたんですか?

周生 ──

それが、生活費は全然かからなかったんですよ。旅の間、誰かと目が合うと「寄って行け」「ゴハンを食べていけ」と誘われて・・・。僕は一人旅だったので誘いやすかったんでしょうね。中近東もそうでした。目が悪い方に目薬を差してあげると、翌日からいろんな人が病気を見てくれと集まってきたり・・・。どの家も困っていることが1つくらいありますよね。そのお困りごとにアイデアを出したり、家の手伝いをしたり・・・。どこに行っても、歓迎されました。当時は電化製品も車も日本製が多かったので、日本人だと分かると歓迎されて。家の修繕をすると、さらに歓迎されて・・・。それに、なぜか皆さん、色んな事を僕に相談してきたんですよ。

テンプル ──

周生さんが醸し出す雰囲気が無防備で、警戒心や怖れがまるでなかったので、すんなり相手の懐に入れた感じなんでしょうか?

周生 ──

自分ではよく分からないです。村の困った課題を何とかしてくれと、村長さんが来たこともあります。そんなことで移動の費用は全然困らずで・・・。寝袋やテントは一応持っていましたが、泊まって行きなさいと言われることが多かったから、テントを使うこともあまりなかったです。イランでは友達になった男の子のお母さんに気に入られて、部屋も食事も全部用意してもらえて、いつまでもここに居ろと言われました。

テンプル ──

各国で言葉が違いますよね。会話はどうしていたんですか?

周生 ──

あまり困った記憶がありません。分からないところは日本語で喋っていたのかな・・・。1週間も滞在すると、現地の言葉を多少は覚えますよね。砂漠の遊牧民の人とも、30分一緒にいると、その人の生い立ちや家族構成、人生模様や背景が理解できました。その人の悩み相談もされたことがあります。

ピラミッドを前にバイクにまたがる周生さん

テンプル ──

えぇ~。言葉が通じない人の人生相談に乗るってどういう状況なんでしょう?

周生 ──

たぶん相手と本気で向き合うと、向こうも僕がどういう人間か、何に困っているか分かるし、僕も彼の心の動きが手に取るように分かってきます。どのくらい相手に関心を持つかの度合いにもよるのではないでしょうか。

テンプル ──

うーん、面白い。以前、ブータンに私の従兄弟が青年協力隊として数年住んでいました。ブータンは野良犬が多かったので、フランスから獣医さんのグループが動物の治療方法を教えに来たことがあったそうです。ブータンは英語で教育を受けるので皆さん英語はわかるんですが、フランス語を喋れる人は誰もいない。それなのに、なぜかブータンの人たちはフランス語での説明が理解できたそうなんです。一緒にいた日本人は誰一人、理解できなかったのに。言葉を知らないと会話ができない、理解しあえないと思っているのは左脳的な思い込みなのかもしれませんね。

周生 ──

ロシアにいた時、思ったんですが、ロシアでも初めて会った人の家に泊まったんです。ロシアは極地に行くと古い寂れた村があるだけでホテルは一軒もありません・・・。でもそこでも歓迎されました。食事も寝るところも用意してくれて、バイオディーゼル車の廃油まで探してくれました。夜の10時過ぎに作業から帰ってきても、皆さんニコニコして、温かいご飯を作ってくれて・・・。不思議なんですが、どこでも歓迎されました。

僕にはどこに行っても、そこの人たちがこの地球で一緒に生きる家族のように思えるんです。初めて会っても、初めて会ったとは思えない。会えてすごく嬉しいし、ハートが繋がっている感じがしました。

テンプル ──

親戚が世界中にいて、その親戚を訪ね歩いている感じなのでしょうか。

周生 ──

初めて出会ったのにその人に懐かしさを感じるんですよね。でも、偶然その人と会っているわけではなく、必然な人に会っているようにも思います。

バイオディーゼル車で地球を一周する前から思っていたのは、会う人は事前にもう決まっていて、その人にどうやって会えるかだけ。だから前もってどこに行くのか、ルートも日にちも決めない。ホテルを予約したり下調べもしない。そう決めて旅に出ていました。

テンプル ──

完全に天におまかせパックなんですね。